平成7年、住職27歳の発心
せっかくなら本物の建物を……
〈はじめに〉
これまで宮大工・小川三夫棟梁を取り上げた書籍は多く、またご自身も「聞き書き」というスタイルで出版されてきました。この記事は、この長年にわたる事業を冊子にまとめたものです。技術や伝統、徒弟制度についての解説ではなく、一地方寺院が檀家と一つになり、日本一有名な棟梁を招き、無事建立にいたるまでの日々を写真と当時の日記で振り返るものです。若き住職だからゆえの無謀とも言える取り組みや落慶までのさまざま奇縁、棟梁と職人、施主との関係や、今後建立を考えるであろう寺院と檀家向けに、その情報を公開し、小さな取り組みであっても、未来に「国の宝」をのこす種まきが出来たら…という実録です。
第1章:未来永劫に使える空間を
日本には古くからの素晴らしい知恵が伝わっているのもかかわず、現代では失ってしまったり、また忘れてしまったりしていることが多くあります。寺院という存在もその一つで、近年では『葬式仏教』などと囁かれることもあります。しかし真の寺院は、生きとし生けるもの全てが救われる空間であり、そこには生死を超越した有り難さを表現されていなければないと思います。
現実の問題として、平成のこの世に人々から浄財を募り、多額の費用を掛け、本当の寺院を復興するは並大抵のことではありません。文化価値の高い建造物は公からの補助があり、それなりの維持がなされています。しかし、地方の寺院になるとなかなか現実は厳しく「檀家の数が多ければ楽」というものでもありません。檀家という制度は寺院維持の為には大きな力を持っていることは事実ですが、それぞれの家の信仰意識の違い、平均を求める心理などが働き、昔のように「我が寺の為に」という奮起は大変な作業です。
その意識を低くした原因は「僧侶の怠慢」と「檀家制度の限界」があります。でもそこを嘆いても始まらない…ならば寺院が持つ本当の魅力、役割を住職が信念を持って存分に布教していくしかないのです。私は稀にみる若さで檀家寺の住職になりました。檀家と向かい合う現場には20歳を過ぎた辺りから第一線でした。「若いからねぇ」との後悔とため息を「若いからこそ」のパワーに変えて奮戦しております。是非とも、この事業を一部でも知って頂き「自分たちの寺院とは何か」と考えて頂きたいと願っております。
平成5年に先代住職(祖父)がこの世を去りました。高野山から帰ってきたばかりの現住職は平成7年、27歳の時に新住職となりました。右も左もわからぬ正に「若僧」でした。そんな折、阪神大震災…被害こそなかったものの寺建物に対する不安の声が挙がり始めました。
「高蔵寺の古い建物は大丈夫か?」
「この先、どれくらいの耐久年数があるのか?」
「寺会計にほとんど残金がない状態で何か起きたらどうするのか?」
「将来を見据えた伽藍(境内建物)の工事計画を立てるべきではないか?」
平成8年、専門家に調査を依頼し、計画案がまとまりました。その時、一番の危険度と判定された建物が客殿でした。高蔵寺の客殿は「人が集う」「供養する」場所で、本堂より大きな建造物です。築160年以上の建物でこれまでにも何度も手が入れられてきました。シロアリに要所を蝕まれ、床部の所々はフワフワした状態、柱は歪み建具との歪みは最大で6センチ以上、戸の開け閉めも厳しい状態、基礎が無く地盤は砂地、二層の屋根が土と河原の重さでかなりダってきていました。風が吹くと「土が走る」という屋根土が畳にサッと積もる。長時間、座っているとあまりの狂いから眼が錯覚を起こし、気分を害することもありました。
「5年から10年の以内に処置が必要」との結果を突きつけられました。まるで大病を急に告知されたような気持ちでどうすべきか悩みました。そして総代達役員と下した決断…それはなんとかそれらを食い止める改築工事でした。とはいっても予算はなく、稀にみる不景気の最中、「改築目的」の浄財を募りました。「しなければならない」そうご理解下さった檀家から5,000万円の目標金額が集まりました。